ベトナム・ハロン湾にて!「子ども」という概念を考えさせられた!

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Photo by Andrea Schaffer

2年ほど前、僕は10日間ばかりベトナムのハノイに行った。僕はその時出会った少年のことが忘れられない。実際に会話をしたわけではない。ある状況を目にしたことによって「子どもとは何か?」ということを考えさせられたからだ。

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友人を訪ねベトナムへ

その時僕は大学を無事卒業することが決まって、ほっとしながら春休みを過ごしていた。大学卒業と言っても僕が大学に入学したのは24歳だったので当時は28歳だった。

あるときふと「どっかいきないなぁ。」っと思い、ベトナムに行くことを決めた。ハノイでお店を経営している友人がいたから、そこにご厄介になろうという魂胆だ。その数時間後には直近の一番安い航空チケットを予約していた。

もともとふらっとどこかへ旅に出るのが好きなので、わくわくしてたまらなかった。ハノイの空港に降り立つとわくわくが爆発しそうになっていた。

それから友人の店を訪ね、荷物を置かせてもらう。数日間何をするでもなく友人のバイクを借りてハノイの郊外をうろうろしていた。ゴチャゴチャしてて空気も悪いが、不思議と居心地が良かったのを覚えている。

赤信号で止まっておっさんにクラクションを鳴らされまくる

バイクで当てもなくいろんな所へ行く。ベトナムで驚いたことの一つは、赤信号で止まった時に後ろのおっさんにひどく怒られたことだ。とにかくクラクションを鳴らしまくる。僕の脳みそには「?」マークが飛び交った。後で友人に聞いてみると、

「ベトナム人は警察のいない交差点では信号守んないんだよ。信号も昔からあったわけじゃないからあんまり気にしないんだよね。だから逆に危ないんだよね。止まっちゃうと。」

ということだそうだ。自分の常識が通用しないんだと思った。

友人に勧められ世界遺産のハロン湾へ

友人はこういった。

「せっかくベトナムに来たんだからどっか観光地行きなよ。どこも連れて行ってないんじゃ俺が怒られちゃうよ。」

僕は観光地はあまり興味が無いのだが、そう言われると行かないわけにもいかんな、ということで行くことにした。

数時間バスに揺られてハロン湾に着く。港から少し大きめのボートに乗ってポイントの場所まで行く。そこからまた、小さなボート?というか丸太をいくつも組み合わせたエンジン付きの板(といっても10人くらいが乗ることのできる大きさ)に乗って更にピンポイントの場所まで連れて行ってくれる。

そこに男の子がいた。6歳くらいだろうか。この少年はそのエンジン付きの板の操縦士で、「子どもってなんだ?」と考えるきっかけをくれた張本人だ。

この少年は観光客のかける言葉を全て無視!

彼の仕事は、乗客をピンポイントのスポットまで連れて行くことだ。時間にすれば数分だったように思う。これが彼の毎日の仕事であり、日常なのだろう。

とにかくこの少年は可愛らしい。愛嬌もへったくれも無いのだが、凛々しい表情で「板ボート」のエンジンをかけるために紐を引っ張りまくる。小っちゃい子がエンジンをかけようと必死になっているのでまた可愛らしい。

その「板」に乗っている観光客はというと、もちろんぽわぽわ能天気満開だ。そりゃバカンスで世界遺産を見に行こうというのだから当然だ。

20代半ばくらいの女の子グループが、少年を見つけてキャーキャー騒ぎ出した。

“hey! look at him! look at him!! he is so cute!”
「ねぇ、みてみて、あの子超かわいい!」

彼女たちは写真をかまえてまた騒ぎ出した。

“hey boy, can I take a pic? look at me! smile!!”
「ねぇ!写真撮っていい?こっち向いてぇ!笑って!」

がん無視!!

ちらりともその観光客らを見ない。彼女たちも「あら、残念!」といった感じ。

僕はこの光景を見て考え込んだ。「子どもってなんだ?」

僕たちの持つ「子ども」という概念は先進国特有の概念なんだなぁ

彼には仕事がある。お客をピンポイントの観光スポットまで運ぶことだ。観光客に写真をせがまれる場面も日常茶飯事なのだろう。

大人にちやほやされても完全にシカトする彼を見て、僕たちが持っている「子ども」という感覚と随分違うなと思った。

自分の子ども時代を思い出してみる。我がままで我慢を知らなかった。与えられないことにわめき散らし、満たされないことにグチグチと拗ねる。

大人になってから自分の周りにいる子どもたちを見てもそうは変わらない。「子ども」とはそういうもんだと思っている。

ハノイで会った少年も家に帰ると母親に甘えたり、泣いたりしているのかもしれない。しかし少なくとも僕が見た光景は全く別の種類の「子ども」だった。

自分のしていることを自覚し、責任を持っているように見えた。そう、「子ども」が表現する無邪気さが感じられない。

僕たちが当たり前のように持っている「子ども」という概念とは?学校に行き教育を受け、放課後に遊びまわり、将来何をして生きていくのか考える時間とチャンスを与えられる。無邪気に生きることを許され、またある意味で本人たちもそれを自覚している。まだ子どだから・・・、と。

子どもが「子ども」らしくいる。それは先進国の中で与えられた、あるいは金を持っている家庭に生まれた子どもが持つ特殊な権利のようものだ。

僕たちはそれを疑うことも、感謝することもせずに当たり前と思う。どちらが良いか悪いかなんて言うつもりもない。ただ選択肢が多くある点では、僕らの考える「子ども」の方が恵まれているも言える。

子どもたちが自分は「子ども」だと信じる。

大人たちも君たちは「子ども」だと信じる。

実はそれは社会が僕たちに与えた、ある種の夢のようなものなのに。

ある社会学者の言葉を思い出した。

「社会状態とは、催眠状態と同じく、夢の一形態にすぎない。すなわち、それは強制された夢であり、行動している夢である。暗示された観念を持っているだけなのに、それを自発的な観念と信じることは催眠状態にある人の錯覚であるとともに、まさに社会的人間の錯覚でもある。」

ガブリエル・タルド『模倣の法則』

合わせていかがでしょうm(__)m

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